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回天丸:榎本脱走艦隊の主力艦で宮古湾海戦では孤軍奮闘した回天丸【軍艦 幕末写真館】

回天丸:榎本脱走艦隊の主力艦で宮古湾海戦では孤軍奮闘した回天丸【軍艦 幕末写真館】
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回天丸
藩名 江戸幕府
藩主 徳川慶喜
船種 木造外輪式蒸気船(コルベット)
機関 蒸気船
備砲 10門
材質 木製
馬力 400馬力
写真






回天丸は幕末期の徳川幕府が所有していた軍艦の一つで木造外輪式の蒸気船。マスト3本のコルベットである。排水量710トン、400馬力。全長69m、全幅10.6mで大砲は40斤ライフル砲を10門と、前面に50斤ライフルカノン砲1門の計11門を備えていた。

プロイセンで製造されイギリスで改装。その後徳川幕府へとわたし「回天丸」と変名した。性能や装備ともに幕府旗艦である開陽丸の次に高かった軍艦である。

回天丸:榎本脱走艦隊の主力艦で宮古湾海戦では孤軍奮闘した回天丸【軍艦 幕末写真館】

一躍回天丸の名を有名にしたのは、現在の盛岡県宮古湾で勃発した新政府軍海軍との宮古湾海戦(アボルダージュ作戦)だろう。これは新政府軍が所有していたアメリカ製の軍艦「甲鉄艦(ストーンウォールジャクソン号)」を旧幕府軍が奪取しようとするもっとも危険な作戦だった。

当初、この作戦には回天丸の他「高雄丸」「蟠竜丸」も参予定だった函館から宮古湾へ向かう途中、蟠竜丸は機関の故障で、高雄丸は馬力の小ささから速度が遅く海戦には間に合わなかった。

結局、回天丸のみでこの作戦を遂行したが大きな損害を受けて失敗に終わる。この海戦には斬りこみ隊として元新選組副長の土方歳三も加わっていた。この作戦の失敗の一番の要因は、回天丸と甲鉄艦との船体の高さの違いと言われている。

回天丸のほうが甲鉄艦よりも約3メートルも高く、このため回天丸の斬りこみ隊が甲鉄艦への乗り込みに時間がかかってしまった。また、回天丸は外輪船のため、直接横づけできず船体の頭をぶつけるしかなかった。

このため、飛び移る部分が一ヶ所に限られてしまった。斬りこみ隊がそうこうしているうちに甲鉄艦乗組員たちは戦闘態勢を整えてしま新式銃などで一斉に応戦した。

旧幕府軍は続々と負傷者が増え、その中には回天丸艦長の「古賀源吾」も含まれていた。回天丸は必死に逃走をはかり、蟠竜丸と共にどうにか函館へ帰り着いた。一方高雄丸は速度の遅さから新政府軍に拿捕されてしまった。

回天丸:榎本脱走艦隊の主力艦で宮古湾海戦では孤軍奮闘した回天丸【軍艦 幕末写真館】

明治2年(1869年)、ついに函館へ向けて新政府軍が続々と上陸し、旧幕府軍と新政府軍との海の闘いも激しさを増した。陸では陸軍が各地で新政府軍に押しまくられ、徐々に函館への撤退を始めていた。

そして、ついに新政府軍の軍艦が函館湾にまで進撃し、旧幕府海軍との海戦に至った。その直前に旧幕府軍では貴重な軍艦の一つ、千代田型を座礁の事故によりあっけなく奪われてしまった。

これにより旧幕府軍の軍艦は「回天丸」「蟠竜丸」の2艦だけになってしまった。このような劣勢の中、新政府軍は甲鉄艦・朝陽丸・春日丸・陽春丸・延年丸・丁卯丸からなる軍艦で大攻勢に転じ、まずは回天丸が走行不能となり、蟠竜丸も最後の最後まで戦いついに大破しここに旧幕府軍の海軍は消滅した。

なお、回天丸は走行不能になってからも弁天台場横に座礁し大砲を討ちづづけたという。最後の一発の大砲を討ち終わった回天丸乗組員たちは回天丸を乗り捨てて弁天台場へと退いた。

その後、回天丸は新政府軍により焼かれてしまった。

【宮古湾海戦の碑住所】
〒027-0001 岩手県宮古市日立浜町32

【宮古湾海戦の碑地図】



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