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長浜藩/場所・アクセス・地図 内藤家4万石:内藤信正 豊臣氏への抑えとして立藩されたが摂津高槻藩へ移封のため廃藩【幕末維新写真館】

長浜藩/内藤家4万石:内藤信正 豊臣氏への抑えとして立藩されたが摂津高槻藩へ移封のため廃藩【幕末維新写真...

【藩名】 長浜藩 【説明】 長浜は今浜と呼ばれていたが「羽柴秀吉」が「織田信長」から浅井氏の旧領を与えられた際に、信長の一字を取って長浜と改めた。秀吉の後は「柴田勝豊」や「山内一豊」「石田三成」らが城主を治めた。 関ヶ原の戦い後の慶長11年(1606年)、豊臣秀頼の動静を監視するために「内藤信成」が駿河国府中から移封さ...
高遠藩/場所・アクセス・地図 内藤家3万3千石:内藤頼直 新政府軍に与して北越戦争・会津戦争に参戦した高遠藩【幕末維新写真館】

高遠藩/内藤家3万3千石:内藤頼直 新政府軍に与して北越戦争・会津戦争に参戦した高遠藩【幕末維新写真館】

【藩名】 高遠藩 【説明】 鳥居家が改易となり、高遠藩領はしばらく幕府直轄地となっていた。元禄4年(1691年)、河内富田林藩より「内藤清枚」が3万3千石で入封し再び高遠藩が立藩された。第2代藩主「頼卿」の時代から藩の財政難が始まり、藩政改革が試みられた。 第7代藩主「内藤頼寧」は産物会所設置による産業奨励、学問の奨励...
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挙母藩/内藤家2万石:内藤文成 戊辰戦争では新政府軍に駿府警護のため一小隊を派遣した挙母藩【幕末維新写真館】

挙母藩/内藤家2万石:内藤文成 戊辰戦争では新政府軍に駿府警護のため一小隊を派遣した挙母藩【幕末維新写真...

【藩名】 挙母藩 【説明】 嘉永4年(1851年)、「井伊政優」に嗣子なく死去すると、井伊家から「井伊政文」が養子として迎えられ第6代藩主となった。安政6年(1859年)、洋式の軍政(英式銃陣法)が取り入れられ習練が行われた。慶応3年(1867年)には全国的に流行していた「ええじゃないか」が挙母でも起きている。 慶応4...
岩村田藩/内藤家1万5千石:内藤正誠 新政府軍に与して宇都宮城の戦いや北越戦争に参戦した岩村田藩【幕末維新写真館】

岩村田藩/内藤家1万5千石:内藤正誠 新政府軍に与して宇都宮城の戦いや北越戦争に参戦した岩村田藩【幕末維...

【藩名】 岩村田藩 【説明】 元禄16年(1703年)8月、「内藤正友」が武蔵国赤沼藩から移封して岩村田藩が立藩された。第6代藩主「内藤正縄」は老中「水野忠邦」の実弟であったため、伏見奉行となりその功績により城主格に昇進した。 最後の藩主「内藤正誠」は日光祭礼奉行・奏者番・寺社奉行などを歴任する。戊辰戦争が勃発すると新...
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村上藩/内藤家5万石:内藤信美 庄内藩と共に新政府軍に抗戦するも降伏【幕末維新写真館】

村上藩/内藤家5万石:内藤信美 庄内藩と共に新政府軍に抗戦するも降伏【幕末維新写真館】

【藩名】 村上藩 【説明】 内藤氏は「徳川家康」の異母弟「内藤信成」の家系である。村上藩7代藩主「信思」の養嗣子で第8代藩主となった「内藤信民」は、幕末の混乱期に藩内における佐幕派・尊皇派の対立に苦しみながら、慶応4年(1868年)7月に早世した。 このため「村上藩」は藩主不在となり、家老で佐幕派の「鳥居三十郎」が主導...
赤沼藩(赤松藩)/内藤家1万5千石:内藤正友 信濃国岩村田藩へ移封のため廃藩【幕末維新写真館】

赤沼藩(赤松藩)/内藤家1万5千石:内藤正友 信濃国岩村田藩へ移封のため廃藩【幕末維新写真館】

【藩名】 赤沼藩(赤松藩) 【説明】 内藤正勝は武蔵国比企郡をはじめ、常陸国・下総国・上野国・上総国などで5000石を領していた。元禄6年(1693年)11月28日、正勝は大坂城番に転身したため、新たに摂津国や河内国において1万石を加増されて諸侯に列し、ここに赤沼藩を立藩した。 しかし正勝は翌年8月7日に大坂で死去し、...
湯長谷藩/内藤家1万5千石:内藤政養 奥羽越列藩同盟に加盟各地に転戦したため新政府軍に攻められ落城した湯長谷藩【幕末維新写真館】

湯長谷藩/内藤家1万5千石:内藤政養 奥羽越列藩同盟に加盟各地に転戦したため新政府軍に攻められ落城した湯...

【藩名】 湯長谷藩 【説明】 本藩にあたる「磐城平藩」内藤家は、延享4年(1747年)に「日向延岡」に転封されるが、湯長谷藩の内藤家はそのまま領地を保ち、幕末まで存続する。歴代藩主はほとんどが養子を迎えていた。 10代藩主「内藤政民」が藩校「致道館」を創設して自ら四書五経を講じたとされるほかは、幕末期まで特筆するような...