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母成峠古戦場跡:板垣退助率いる新政府軍が会津藩領へ攻め込んだ母成峠の戦い【史跡 幕末写真館】

母成峠古戦場跡:板垣退助率いる新政府軍が会津藩領へ攻め込んだ母成峠の戦い【史跡 幕末写真館】
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【史跡名】
母成峠古戦場跡

【母成峠古戦場跡の説明】
慶応4年(1868年)8月21日、板垣退助率いる新政府軍が会津藩領へ攻め込んだ際に発生した最初の戦いが「母成峠の戦い」である。江戸城を無血開城させた新政府軍は矛先を東北諸藩へ向け、特に因縁のある会津藩への攻撃は最大の目標の一つであった。

会津若松城より北東に位置する「二本松城」が落城し、新政府軍は仙台藩を攻めるかのように装いながら、突然会津領「母成峠」を越えてきた。新政府軍2,200名に対して、これを迎え撃つ会津藩兵や旧幕府軍・新撰組は合わせて約800名であった。

母成峠古戦場跡/写真 板垣退助率いる新政府軍が会津藩領へ攻め込んだ母成峠の戦い【史跡 幕末写真館】

不意を突かれた会津兵は早々に崩れ、旧幕臣で「伝習隊」を率いていた「大鳥圭介」も退いた。銃器や装備の違いも態勢に大きな影響を与えたことは間違いないであろう。

母成峠を突破した新政府軍はそのまま「猪苗代城」へ押し寄せ、これを通過し、夕方には「十六橋(十六橋の戦い)」まで進撃した。なお、猪苗代城の城代「高橋権大夫」はここでは防ぎきれないと判断し、城を焼き会津若松城へと退いていた。

十六橋の破壊にも失敗した会津兵は新政府軍の進撃を防ぐことが出来ず、夜には「戸ノ口原(戸ノ口原の戦い)」を突破され、翌早朝には滝沢本陣をも捨て城へと退いた。会津藩重臣たちはここまで早急に攻め込まれるとは思ってもみなかった。

その後、約一ヶ月にわたる会津藩の籠城戦が続くが最後は無条件降伏を申し入れた。この一連の戦いの全ての始まりは「母成峠の戦い」の敗戦が関係していると言えるかもしれない。現在の「母成峠古戦場跡」には土塁の他、戦没者を弔う碑が建っている。






【母成峠古戦場跡・場所・アクセス】
〒969-2752 福島県耶麻郡猪苗代町蚕養

【母成峠古戦場跡地図】



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