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久保田城:佐竹氏の居城で幕末では奥羽越列藩同盟からいち早く脱退し新政府軍へ寝返った秋田藩【お城 幕末写真館】

久保田城:佐竹氏の居城で幕末では奥羽越列藩同盟からいち早く脱退し新政府軍へ寝返った秋田藩【お城 幕末写真館】
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【城名】
久保田城

【久保田城の説明】
秋田藩は関ヶ原の戦いの2年後に「佐竹義宣」が徳川家康から突如国替え(常陸国より)を命じられたことに始まる。義宣の父「佐竹義重」は徳川家康とは昵懇の仲であったが、嫡男で当主の義宣に采配の一切を任せた。

幕末の秋田藩では「平田篤胤」の勤皇思想(尊皇思想)が根付いており、この思想の系統として一つの派閥が出来上がっていた。当初は「奥羽越列藩同盟」に加わっていたが間もなく藩論が新政府軍へと傾き、仙台藩の使者を斬ったうえで脱退した。

久保田城/写真 佐竹氏の居城で幕末では奥羽越列藩同盟からいち早く脱退し新政府軍へ寝返った秋田藩【お城 幕末写真館】

尊攘派の中心は「吉川忠行・忠安」親子であり、忠安は「雷風義塾」に学んでいた。忠安は『開花策論』において尊皇思想を説き、12代藩主「佐竹義堯」がこれを容れたための一藩官軍参加(西軍)であった。

これにより隣藩の南部「盛岡藩」から猛烈な攻撃(秋田戦争)を受けるも、辛くもしのいだ。これには新政府軍が派遣した当時最新鋭の「佐賀藩兵」の影響が大きかった。戊辰戦争終結後は久保田藩改め「秋田藩」となり、廃藩置県を受けて秋田県へと繋がる。

久保田城/写真 佐竹氏の居城で幕末では奥羽越列藩同盟からいち早く脱退し新政府軍へ寝返った秋田藩【お城 幕末写真館】

現在の久保田城跡は「千秋公園」として整備されており、城の遺構としては堀や土塁、久保田城表門、佐竹資料館などが建立されている。






【久保田城・所在地・アクセス】
〒010-0876 秋田県秋田市千秋公園1

【久保田城マップ】



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