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備中松山城:日本三大山城にして板倉勝静が山田方谷を執政に抜擢した備中松山城【お城 幕末写真館】

備中松山城:日本三大山城にして板倉勝静が山田方谷を執政に抜擢した備中松山城【お城 幕末写真館】
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【城名】
備中松山城

【備中松山城の説明】
江戸時代の備中松山藩は「水谷氏」「安藤氏」「石川氏」と城主が代わり、最後に徳川家譜代大名の「板倉氏」が5万石にて入封し幕末を迎える。城は本丸・二の丸・三の丸からなり、江戸時代には山頂での政務が不便なため山麓に御殿を置き、そこで藩主の住居や政務をとり行った。

備中松山城:日本三大山城にして板倉勝静が山田方谷を執政に抜擢した備中松山城【お城 幕末写真館】

幕末時に備中松山藩を大改革した執政の「山田方谷」が陽明学者として有名であり、備中松山藩の財政立て直しを図り成功している。長岡藩の「河井継之助」が方谷の進める藩政や農地改革を学びに来たこともある。

備中松山城:日本三大山城にして板倉勝静が山田方谷を執政に抜擢した備中松山城【お城 幕末写真館】

幕末最後の藩主「板倉勝静」は老中を務め、鳥羽伏見の戦いが勃発すると職務の為国元には帰れず、新政府軍により江戸で謹慎処分とされた。その後宇都宮藩へ移送されたが大鳥圭介率いる旧幕府軍(伝習隊など)により保護された。

備中松山城:日本三大山城にして板倉勝静が山田方谷を執政に抜擢した備中松山城【お城 幕末写真館】

勝静は同じ老中だった「小笠原長行」と共に蝦夷地まで渡り、函館戦争では多くの備中松山藩士が新撰組へ入隊し土方歳三の指揮下に入った。明治2年(1869年)、榎本武揚が新政府軍に降伏する前に新政府軍に降伏・自首した。

※備中松山藩最後の藩主「板倉勝静」
備中松山城:日本三大山城にして板倉勝静が山田方谷を執政に抜擢した備中松山城【お城 幕末写真館】

現在の「備中松山城」は国の重要文化財や国の史跡に指定されており、本丸の整備や多くの櫓や門などを復元している。また、日本100名城68番にも選定されている。

備中松山城:日本三大山城にして板倉勝静が山田方谷を執政に抜擢した備中松山城【お城 幕末写真館】






【備中松山城・場所・アクセス】
〒716-0004 岡山県高梁市内山下1

【備中松山城地図】



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