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土佐藩(高知藩)/山内家20万2600石:山内豊信(容堂)鳥羽・伏見の戦いから会津戦争など戊辰戦争を戦い抜いた土佐藩【幕末維新写真館】

土佐藩(高知藩)/山内家20万2600石:山内豊信(容堂)鳥羽・伏見の戦いから会津戦争など戊辰戦争を戦い抜いた土佐藩【幕末維新写真館】
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【藩名】
土佐藩(高知藩)

【説明】
土佐藩は戦国時代の末期、掛川城主「山内一豊」が「関ヶ原の戦い」の功績により徳川家康から土佐一国を与えられた。前領主だった「長宗我部盛親」は改易とされた。特に藩内の身分が厳しく、旧長宗我部家臣団は郷士扱いとされ、掛川より率いてきた家臣団は上士扱いとされた。郷士は基本的には藩主にお目見え出来ないなど、厳しい身分制度であった。また、上士は郷士への無礼討ちを容認されていた。

土佐藩(高知藩)/場所・アクセス・地図 山内家20万2600石:山内豊信(容堂)鳥羽・伏見の戦いから会津戦争など戊辰戦争を戦い抜いた土佐藩【幕末維新写真館】

幕末には、15代藩主「山内豊信(容堂)」が「吉田東洋」を起用して藩政改革を断行した。東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い、「武市瑞山(半平太)」を中心とした土佐勤王党によって暗殺された。のちに実権を回復した保守派勢力により、土佐勤王党は容堂(豊信)の激しい報復を受け、武市瑞山の切腹や党員の処刑など多くの弾圧を受けた。

土佐藩(高知藩)/場所・アクセス・地図 山内家20万2600石:山内豊信(容堂)鳥羽・伏見の戦いから会津戦争など戊辰戦争を戦い抜いた土佐藩【幕末維新写真館】

なお、東洋の門下より「後藤象二郎」や「板垣退助」、「岩崎弥太郎」ら明治を代表する人物が輩出している。その他、郷士出身の「坂本龍馬」や「中岡慎太郎」など多くの優れた人材が輩出された。龍馬や後藤を通じて容堂から15代将軍「徳川慶喜」へ大政奉還が献策され、江戸幕府の幕が閉じられた。土佐藩は薩長土肥の一角をなし、時代転換の大きな役割を演じた。

慶応4年(1868年)1月3日、 旧幕府軍の発砲で「鳥羽・伏見の戦い」が勃発すると、容堂は土佐藩兵約100名を上京させたにもかかわらず、この戦には加わるなと厳命した。しかし、在京の土佐藩兵らは「板垣退助」より戦闘に加わるよう密命を受けていたので、容堂の制止を振り切り薩土密約に基づいて新政府側に就いて戦闘に参加した。

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同1月7日、西郷から「討幕の合戦近し」という密書を受け取り、さらに開戦したことを「谷干城」から報告を受けた土佐在国中の「板垣退助」は、薩土密約に基づいて「迅衝隊」を率いて上洛した。容堂は、京都を進発する前夜の2月13日、東山道へ出発する「板垣退助」率いる土佐藩迅衝隊に寒いので自愛するよう言葉を与えた。

板垣退助率いる土佐藩兵は中山道鎮撫使として江戸を目指し、江戸城無血開城のあとは北関東や会津戦争、一部は函館五稜郭の戦闘にも加わった。この戦闘で活躍した指揮官達が明治新政府の中で活躍した。

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なお、会津若松城攻めでは土佐藩が先鋒を務め、城下町の戦闘で多大な犠牲をだし先鋒を交代している。明治4年(1871年)、廃藩置県により高知県となり、山内氏は明治17年(1884年)の華族令により侯爵に列せられた。

【場所・アクセス・地図】
〒780-0850 高知県高知市丸ノ内1丁目2−2−1








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