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三田藩/九鬼家3万6千石:九鬼隆義【幕末維新写真館】

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【藩名】
三田藩

【説明】
九鬼氏は藤原北家熊野別当の末裔で紀伊国牟婁郡(現在の三重県尾鷲市)で起こり、志摩国鳥羽藩(三重県鳥羽市)を拠点に九鬼水軍を統率し秀吉の九州征伐や朝鮮出兵で水軍総督を務めた大名である。守隆の死後、五男の久隆と三男の隆季との間に家督争いが起こり、水軍力を恐れた徳川家光はこの家督争いを理由に九鬼氏の石高5万6千石を分割、内陸の三田と綾部に移封させた。これにより九鬼氏は鳥羽の地と水軍を失い、

最後の13代隆義は藩政改革を行い、軍隊を洋式に改めた。藩政改革を断行し、下級藩士の白洲退蔵や小寺泰次郎の登用、スナイドル銃の使用など、藩兵の軍備洋式化を行なった。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦い直後から新政府に与して戦った。当初は、大政奉還に強く反対した佐幕派であったが、勤王派に転身した。

慶応3年(1867年)藩論が倒幕に統一され、鳥羽・伏見の戦いにおいても洋式軍隊を率い官軍方として参戦した。また、明治維新が起こると、近代港として神戸港が整備されると知るや、幕末から明治維新の混乱による財政の立て直しと廃藩置県で困窮する三田藩士を救うべく、藩士の白洲退蔵(白洲次郎の祖父)、小寺泰次郎らとともに「志摩三商会」という神戸初の輸入商社を設立する。これが成功を収め不動産や金融業に乗り出し、現在の元町、三宮といった神戸港周辺の都市開発や神戸女学院の前身である女子寄宿学校・神戸ホームの創立に関わるなど、神戸の街づくりに多大な影響を及ぼしている。

明治4年(1871年)廃藩置県により三田県となる。その後、兵庫県に編入された。

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